(1日で気づいたことを要所要所でまとめただけだから文章としてきれいにはまとまってない。)
じぶんの 好きなものを知りたくて、
セカンドストリートで、惹かれるモノだけを集めて試着してみると、完全にアメコミ感があった。単体で身につけてるとなんか違かったのに、一緒くたにしてみるとまとまった。
ひとつの個性になった。
きれいなものに憧れはあるけれど、やさぐれてたり枯れていたり褪せているような〝欠落〟しているモノに魅力をかんじる。
それがわたしなんだろうな。
汚れていてもそれでもちゃんと生きてる美しさ。(選んでしまう服たちは破れていたり色褪せていた)
世間を見渡しても親友を見ていても、清潔感があり綺麗なものが美しく、それが成熟さなんだといつしか教わり、そう脳に植え付け心の価値観を抑えつけていた。そうして傷ついた心は水面下で親友を敵とみなしていたのか?ただわたし自身がじぶんに自信を持てないだけだったのに。
私の心が求めていた美しさは世間が良しとする、そこには無かった。人の温もりであたたかく汚れた美しさを私の心は求め、愛していたんだろう。
値段じゃなく、見た目じゃない。子どもが拾った木の枝に名前を与え生を宿らせるみたいに感じたインスピレーションでうまれる愛着みたいに、わたしの心は服を選びたかったようだ。
わたしはわたしの心が抱くその愛着を、
そういうモノに魅力を感じる価値観を、
信じずに、否定し、無下にしていた。
さいきん、10代のときのように写真を撮り、アートが心に入ってくる。わたしはいつの間にか社会や大人だからとかそんな基準を元に、20代を迎えた頃から心をたくさん殺してしまっていたのかもしれない。その仇が2019年にきて急に全てがワーっと苦しくなって社会から逃亡したのかもしれない。
歳を重ねるにつれて社会的に美しい方に価値を感じたがるようになっていた自分や、男性の気を惹けるファッションを選ばなくちゃと選択を狭める自分、変なものを好きなヒトを避けたがる自分が生まれていた。
〝価値観が変な人間は愛されない、
変な人間は集団から外される〟
そうした価値を正義にしたのは生存本能でもあって、経験から強い思い込みが生まれ、
変なものを好きな自分を抑え込んでいた。
でも私は私なのだ。それを認めてあげる。それがいいんだよ。
そういう貴方だから、魅力的に映るんだよ。
心の欲望というのはいつも思い付きのように突然で、それを聞く度、頭というのは「もっと計画的にお金を使わなきゃ」だとか「それを良いと思う理由が無いなら買わない方がいい」とかそんなふうに直観的な心を抑圧していたんだな。抑圧し過ぎた。揺れやすい弱いわたしのせいで、この子を長らく独りにさせてしまった。
すこし個性的な自身の見た目を嫌っていた。フツーの服が似合わず、世間一般的な魅力を出せない原因に思っていたから。でも、わたしはわたしの好きなモノがいちばん生かせる素材を最大限に持っているように思える。そんな気がする。痩せないこの体型も、むしろなんだか、今のわたしにはとても愛しい。(こないだ男の子が大きなお尻を褒めてくれたチカラもある。ありがとう。)
この中から上着はわりと使えそうなので試しに買ってみた。(50パーオフで390円。世の中からは価値が無いようだ)自分に買ったはずなのに、家に着いたとたん、まるで誰かにお土産でも買ってきたような気持ちで大切なものにかんじた。